
関連施設

ブルノ・フィルハーモニー
住所: KOMENSKÉHO NÁM. 8
ヤナーチェクが生きていた頃、ブルノにプロの交響楽団は存在しませんでした。交響楽のコンサートはブルノ・ベセダ交響楽団によって運営されていました。演奏はアマチュアの演奏家、軍音楽隊員やチェコ・フィルハーモニーメンバーの客演などによるものでした。1898年にヤナーチェクはチェコ国立の楽団を立ち上げましたが、すぐに消滅してしまいました。その後はある程度までブルノ国立劇場のオーケストラが浸透していきましたが、ヤナーチェクは何度もプロの交響楽団の必要性を主張しました。ブルノ・フィルハーモニーは1956年に設立され、ヤナーチェクの作品はブルノ・フィルハーモニーの重要なレパートリーとなっています。今後、これまでのヤナーチェク劇場コンサートホールに代わって、ブルノ・フィルハーモニーの新たな拠点となるコンサートホールが完成する予定です。


ブルノ国民劇場
ブルノにおけるチェコ演劇の上演は、当初ベセドニー・ドゥームのホールで行われていましたが、1884年からは、もとはレストランとダンスホールであった場所を改築して造ったヴェヴェジー通りの劇場で行われるようになりました。演目については、レオシュ・ヤナーチェクもその活発なメンバーであった、ブルノ国民劇場運営委員会が手掛けていました。運営委員会は長年新しい劇場の建設も求めていましたが、実現されませんでした。チェコスロヴァキア共和国建国後1919年に、ブルノ国民劇場は以前のドイツ人劇場(現マーヘン劇場)の建物へと移転しました。1920年代にはここでヤナーチェクのいくつものオペラが世界初演を迎えました。
新しい劇場建設は1960年代に入ってから始まりました。1965年には、ヤナーチェク劇場の近代的なホールで「利口な女狐の物語」のこけら落とし公演が行われました。ヤナーチェク劇場は現在ではブルノ国民劇場オペラおよびバレエ部門の本拠地となっています。レオシュ・ヤナーチェクの作品は当劇場の代表的なレパートリーとなっています。
ブルノ国立劇場は、ヤナーチェク・ブルノ・フェスティバルの主催者でもある。


ヤナーチェク音楽アカデミー
1918年以降、ヤナーチェクのオルガン学校が音楽学校へと改編されようとした時、ヤナーチェクは新たに作られる学校が高等教育機関となることを提案しました。「大学の人文学部に音楽学校を融合させることは高等教育機関として大きな意味を持つだろう」と。最初にプラハで高等教育機関である音楽アカデミーが設立されました。そしてその2年後にヤナーチェク音楽アカデミーがブルノに設立されました。この音楽アカデミーはヤナーチェクが残した数々の偉大な作品のみならず、ヤナーチェクのブルノでの音楽教育発展のための活動を記念して彼の名を冠することになりました。現在ではヤナーチェク音楽アカデミー(JAMU)には音楽学部と演劇学部があります。音楽学部では毎年レオシュ・ヤナーチェク国際コンクールも行われています。



モラヴィア博物館音楽史部門およびヤナーチェク記念館
モラヴィア博物館音楽史部門は、1906年から校長としてヤナーチェクが勤務したオルガン学校のあったフレボラード・ヴィラ内にあります。音楽部門のコレクションには、ヤナーチェクの原稿、手紙、書類、書籍などが集められたユニークなアーカイブがあります。ヴィラの庭には、1908年から1910年の間にオルガン学校校長であったヤナーチェクのために建てられた小さな家もあります。ヤナーチェクはその後亡くなるまでこの家で暮らしました。ヤナーチェクの暮らしぶりと作品の展示があるこの家は、現在ではヤナーチェク記念館と呼ばれています。ヤナーチェクの仕事部屋の展示もあります。
レオシュ・ヤナーチェクのアーカイブは2017年ユネスコ「世界の記憶」に登録されました。


ヤナーチェク財団
ヤナーチェク財団は、レオシュ・ヤナーチェク関連の様々な活動の発展、サポート、普及を使命としている財団です。主にモラヴィア博物館音楽史部門でのヤナーチェクの原稿の現存維持作業、楽譜や書籍発行助成、作品上演サポートなどをおこなっています。財団はヤナーチェク作品上演から得られた資金をもとに設立されました。ヤナーチェク夫妻は2人の子どもをなくし後継者がいなかったため、妻ズデンカ・ヤナーチュコヴァーが亡くなったのち、ヤナーチェクの望み通り、遺産はマサリク大学に受け継がれることになりました。のちの1954年からはチェコ音楽財団が遺産を管理、1991年にはヤナーチェク財団を設立しました。著作権使用料の管理、フクヴァルディにあるレオシュ・ヤナーチェク記念館の運営、ブルノのヤナーチェク記念館の運営もおこなっています。


ブルノ音楽学校
1870年代ブルノでヤナーチェクは、未来の音楽家たちの学校設立に奔走していました。プラハでは1808年にすでに音楽学校が設立され(中央ヨーロッパで初)、隣にはオルガン学校も併設されていたにも関わらず、ブルノには似たような教育機関がありませんでした。1881年ヤナーチェクはブルノのオルガン学校設立にこぎつけ、1919年まで校長として任務しました。1919年学校は改編され、最初は私立の学校となりましたが、のちに国立の音楽学校になりました。
現在では当音楽学校で楽器演奏、作曲、指揮、歌唱そして演劇を学ぶことができます。
